荘則棟
中国卓球の黎明期に活躍した荘則棟氏が亡くなられたという、悲しいニュースが・・・。
オールドファンには言わずもがなですが、1961年の世界卓球北京大会で世界選手権初優勝、以後63年のプラハ、65年のリュブリャナと3連覇を成し遂げた名選手でした。
その後、文化大革命の影響で国際舞台から姿を消しましたが、1971年の名古屋大会で国際大会に復帰し団体優勝に貢献。この時の、偶然によるアメリカ人選手との交流が、のちに「ピンポン外交」と呼ばれることになる米中関係改善のきっかけとなったのは、広く知られるところです。
動画は短いですが、1965年リュブリャナ大会でのプレーと、1971年名古屋大会でのプレー。最後の一つは技術動画。中国のペン表前陣速攻といえば右打ち・左押しというスタイルでしたが、荘則棟氏は右打ち・左打ちという彼にしかできないスタイルで世界を制しました。
政治の荒波に揉まれた人生ではありましたが、卓球界で一時代を築いた偉人の死。ご冥福をお祈りします。
コメント
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コメント (9)
ご冥福をお祈り申し上げます。
このころはまだスポンジ卓球ですか?
コンパクトなフォームからのなかなかのスピードのバックドライブ
現代でも通じる何かを感じました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
オールドファンのKOです.
ご冥福をお祈り申し上げます.
荘則棟のプレーを実際に見ることが出来なかったのが残念です.
優香さん:
> このころはまだスポンジ卓球ですか?
スポンジ禁止や厚さ4mm制限は1959年ドルトムント大会以後ですから,上の動画の時代はもうスポンジではありません.
動画でしか観たことはありませんが、若かりしころのフォアハンドは豪快そのものでした。バックハンドもコンパクトでエネルギー交換率の良いフォームですね! 表ソフトの伝道師(教授)がいなくなることは寂しいかぎりですが、
荘則棟先生の ご冥福をお祈り申し上げます.
表と裏ソフトの違いはありますが、荘則棟先生のフォアのフォームは郭躍華が真似たのかもしれませんが、ボールを待つまでと、ボールを捕らえてからが非常に良く似ていると感じました。
巨星、墜つ…
一般メディアでは主に「『ピンポン外交』の立役者」という
扱いでしたが、卓球ファン(マニア?)の間では
ワルドナーに勝るとも劣らないくらいの偉人でしたね。
「加速制動打法」といいましたか、影虎さん仰るように、
フリーハンドを巻き込むような独特のフォアは
後の郭躍華選手のフォアドライブに通じる感、ありますね。
そうした点でも、中国卓球の後々までの隆盛への寄与は
一方ならぬものがあったのでしょう。
リタイア後の”政争”、病との長きに渡る闘い。
日中関係かまびすしい昨今ではありますが
国際友誼にも尽くされた偉大な先人に
日本の一卓球人として、心より哀悼の意を表します。
“祈庄先生冥福,太辛苦了。”
中国の卓球を支え続けた偉大な方が亡くなっていたとは…。
ご冥福をお祈りします。
これほど細身でしたか。動画4番の最初4分間はリュブリアナ大会、そこで小中さんと比べるとかなり小柄です。体勢も随分腰高だったのですね。たたみかけるフォア強打は迫力あり中国速攻タイプそのものでしたか。コンパクトなバックハンド、分かりづらいバックサーブも初めて観れました。アップありがとう御座います。しかし今と違い皆サーブを’あっけなく’出していますね。5本制にしても・・
3番目は’61北京と’63プラハではないですか!。最初は何と荻村さんとの対戦ですね。驚いたのは「右打ち左押し」の李富栄(3連続準優勝)がロビングも得意であったこと。日本相手ではどうでしたか?次にプラハの準決勝ですか、荘対張と李対王が短く映っています(張と王志良はペンとシェークで、男子カットペアでは最後のチャンピオン!)。西独シェラーや張といった当時最高のカットマンにも負けなかったのですね。
当時小学生だった私の大ヒーローは大横綱大鵬でした。荘氏も同じ享年72歳です。謹んでご冥福をお祈り致します。
中国国内ではどう報道され反応されたのかは知りません。中国の卓球ファンにも「庄(ジュアン)」としなければ通じないのでしょう。